トップ10

(1)渋沢栄一
(2)盛田昭夫
(3)松下幸之助
(4)小倉昌男
(5)稲盛和夫
(6)永守重信
(7)山内溥
(8)安藤百福
(9)本田宗一郎
(10)江副浩正

<歴代の経営者トップ10>
順位 人物名 概要
渋沢栄一
大蔵省官僚、実業家

(1840年~1931年)

渋沢栄一


<肉声↓>

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経営者という枠を超えて、明治時代の最大の大物と言われる。 多数の有力企業や銀行の創業に携わり、日本の近代資本主義の基礎を築いた。

江戸時代に豪農の息子として生まれ、 激動の幕末期に少年時代を過ごした。 10代のころから実家の手伝いで商才を発揮したという。

24歳のときに江戸幕府の視察団の一員として渡欧。 1年間の滞在で資本主義を学ぶ。 帰国後、静岡に日本で最初の株式会社を設立した。 さらに、発足間もない明治政府から懇願されて財務官僚となり、 日本の金融・財政システムを創設した。

その後、再び民間人になって次々と起業。 現みずほ銀行、三井銀行、王子製紙、日本赤十字社、帝国ホテル、帝国劇場、日本郵船、石川島播磨重工、東京ガス、東京電力、札幌ビール、東京海上など約500社の企業を設立した。 さらに東京商工会議所や東京証券取引所の前身も創設した。 まさに超人的な活躍ぶりで、日本経済の奇跡的な近代化をリードした。

2024年から発行される新しい1万円札の表紙に選ばれた。

参考:「小説 渋沢栄一」

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盛田昭夫
ソニー共同創業者

(1921年~1999年)

盛田昭夫


【動画】
<米国インタビュー↓>

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<米映画会社の買収↓>

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戦後、天才技術者・井深大と2人でソニーを設立し、世界屈指の大企業に育てた。 斬新な商品を次々と開発し、 斬新な音響・映像機器を世界に普及させた。 「ウォークマン」はその象徴である。

昭和の時代、日本には多数の名経営者が誕生した。 その中で盛田氏が傑出している点は、 事業の多角化に大成功したことだ。

日本の製造業の全盛時代にあって、 ものづくりだけでは限界があることを早々に予見。 「金融」「映画・音楽」といった異業種へ進出した。

盛田が死去した後の21世紀になって、こうした新規ビジネスが華々しく開花。ソニーグループは他の製造業とは異なる総業企業になった。 とくにハリウッドの映画スタジオを買収したことは、当時は「クレイジー」と批判されたが、大正解だった。

国際的なビジネスセンスも卓越していた。 海外の経営者や有力者と交渉し、商談をまとめる能力は戦後期の日本において抜群だった。

参考:
「小説 盛田昭夫学校(上)」→
ソニー社長 歴代→

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松下幸之助
パナソニック創業者

(1894年~1989年)

松下幸之助


【動画】
<講演↓>

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動画(NHK番組)→
パナソニック(元:松下電器産業)の創業者。「経営の神様」と呼ばれる。 戦後、多くの経営者にとって教師のような役割を果たした。

昭和の日本に繁栄をもたらした一般消費者向け電気製品分野の大成功者。 家電にとどまらず、部品や住宅機器などの分野にも次々と進出。時代を越えて生き残れる体質を築いた。

1979年に松下政経塾を設立。政治のリーダーの育成にも貢献した。

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小倉昌男
ヤマト運輸社長

(1924年~2005年)

小倉昌男
日本初の宅急便(宅配便)を実現した。

新しいアイデアを次々と実行し、 社会の常識や組織の限界を次々と打ち破った改革者。 がんじがらめの規制と徹底的に戦い、宅配便を生活に欠かせないサービスとして定着させた。 官と闘い、反骨の経営者と呼ばれた。

父親が経営する大和運輸を継ぎ、1971年に社長に就任。 1976年に宅急便(後の「クロネコヤマト」)を始めた。 個人向けの小口貨物輸送といえば郵便小包か国鉄小荷物しかなかった。電話一本で玄関まで荷物を取りに来てくれる便利な宅配便は、またたくまに消費者に受け入れられ、輸送量は倍々ゲームで増えていった。

ところが、規制の壁が立ちはだかる。宅急便を全国展開しようとしたヤマトに対し、護送船団方式を貫く旧運輸省(現国土交通省)が路線免許を出し渋り、行政訴訟に発展。旧郵政省(現総務省)とも、ヤマトの始めたメール便が、郵便局しか配達が認められない信書便にあたるかどうかをめぐって対立した。

ヤマトは1997年、東京・小笠原を最後に全国配送網を完成させた。宅配便市場には他社も参入。日本郵政も追随した。

経営の一線を退いたあとは、障害者を支援してきた。1993年、私財を投じてヤマト福祉財団を設立。障害者と健常者が一緒に働くパンのチェーン店「スワンベーカリー」を全国につくった。そこにも「障害者の自立をだれも真剣に考えていない」という現状への怒りがあったという。

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稲盛和夫
(いなもり・かずお)
京セラ創業者

(1932年~2022年)

稲盛和夫


【動画】
<テレビ番組>

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哲学を重視した経営を実践。昭和から平成にかけてベンチャービジネスの教祖的存在になった。 若者から高級官僚まで幅広い層から尊敬を集めた。

鹿児島生まれ。鹿児島大学の工学部卒。 京都の部品メーカーに就職し、社内でセラミックの開発にゼロから取り組んだ。 1959年に上司と喧嘩して退社すると、京都セラミック(京セラ)を起業。 世界的なメーカーへと成長させた。

その後、分野の全く異なる通信業界で新会社「第二電電」(後のKDDI)を立ち上げ、独占企業だったNTTに挑んだ。日本の通信料金の引き上げに貢献した。 21世紀には経営破綻したJAL(日本航空)にトップに就任し、再建に尽力。お役所的な組織に、純民間の魂を吹き込んだ。

自らの経営塾を通じて、多くの教え子を育てた。

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永守重信
(ながもり・しげのぶ)
日本電産創業者

(1944年~)

永守重信


【動画】
<講演>

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高度経済成長が終わった1973年に創業。 世界トップの精密小型モーターに育てた。日本を代表する「買収・再建の名人」としても有名。

バブル崩壊後の1990年代以降、多くの製造業が不振に陥るなかで、積極的なM&Aを展開。買収先の企業に乗り込み、鮮やかに復活させた。 欧米でも積極的な買収を行い、株主として会社を立ち直らせた。 海外でこれほどM&Aを成功させた日本人は、他にいないだろう。

M&Aを「島と橋」に例えた。企業が「島」で、M&Aは「橋」だ。 超小型モーターの日本電産から、買収先の企業に橋を架ける。 島や橋の周囲には、技術や販路での相乗効果で、干拓や埋め立てのように大きな陸地が生まれる。日本電産という島だけを大きくするより、素早く巨大な企業群ができる。

買収した企業には「心理療法と漢方薬を使い、外科的療法はしない」という主義で臨んだ。

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山内溥(ひろし)
任天堂社長

(1927年~2013年)

山内溥


【動画】
<テレビ番組>

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日本のテレビゲーム業界の生みの親。 世界の子供たちの遊びを変えた。 「ファミコン」「ゲームボーイ」などのゲーム機、そして「マリオ」「ポケモン」「ゼルダ」などのキャラクターを世界に送り出した。

戦後間もなく早稲田大学に入学したが、祖父が病に倒れたことから、中退し、実家の花札屋を継いだ。

1952年、花札製造の機械化に踏み切った。翌年にはディズニーのキャラクターを使ったプラスチック・トランプの生産を始め、これが大ヒット。1962年、社長就任14年目で大阪証券取引所2部に上場した。

高度成長期に入って娯楽が多様化し、トランプブームが終焉すると、先端技術に着目。太陽電池メーカー、シャープの協力で光線銃のおもちゃをつくり、ヒットさせた。さらに、当時普及し始めた初期のテレビゲーム機に目をつけ、ゲームソフトの社内コンテストを実施。後にマリオシリーズを生み出す宮本茂の提案で、1980年、液晶電子ゲームとデジタル時計を組み合わせた「ゲームウォッチ」を世に出した。1年で1600万個売った。

さらに、一つのハードで一つの遊びしかできないゲームは限界があるとの考えから、ファミコン及び「ドンキーコング」などのソフトを開発。1980年代の世界市場を席けんした。その後も「スーパーファミコン」「ゲームボーイ」「ニンテンドーDS」「Wii」など次々とゲーム機を大ヒットさせた。

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安藤百福
(あんどう・ももふく)
日清食品創業者、即席ラーメンの生みの親

(1915年~2007年)
享年96歳

安藤百福
日清食品の創業者。世界初の即席めん「チキンラーメン」とカップめん「カップヌードル」を独力で開発。 わずか3分で作れる食事を普及させ、人類の食文化を変えた。「ラーメン王」「ミスター・ヌードル」として海外でも尊敬を集めた。

1910年台湾生まれ。幼いころに両親を亡くした。1934年に立命館大専門学部を卒業。貿易や繊維販売、漁業などに挑んだ。戦後の1948年、日清食品の前身となる「中交総社」を設立した。

衣料品販売や製塩業などさまざまな事業を手掛けた。しかし、人から頼まれて理事長に就いていた信用組合が倒産してしまった。

一気に貧乏生活に転落した。しかし、再起を目指して、大阪・池田市の自宅庭に、即席ラーメンを開発するための研究小屋を設けた。 人々が飢えていた終戦直後、闇市のラーメン屋台に並んだ人の行列を見掛けたことが、発想の原点だった。 寝食を忘れてめんを打ち、油で揚げる作業を繰り返した。

かくして、1958年に世界初の即席めん「チキンラーメン」を生み出した。これが爆発的なヒットとなった。

このとき既に48歳だったが「人生に遅すぎるということはない」と挑戦を続けた。

自社の利益だけにこだわらず、即席めんの普及には業界全体の成長が必要と判断。製造法などの特許を惜しみなく公開した。

1971年には世界初のカップめん「カップヌードル」を発売。その後も新商品を次々と開発した。日清食品を業界首位の企業グループへ育て上げた。

1981年に社長を退き、会長に就任。

1999年には即席ラーメンの歴史を振り返る「インスタントラーメン発明記念館」(池田市)を設立した。

2005年7月には、日清食品の即席ラーメンが米スペースシャトルに持ち込まれ「宇宙食」とされた。

私財で子供らのスポーツを振興する財団を設立した。

2007年1月5日、急性心筋梗塞(こうそく)のため大阪府池田市の病院で死去した。96歳だった。亡くなる前日も立ったまま年頭訓示をしていた。喪主は妻仁子(まさこ)さんが務めた。

あるアンケートでは、20世紀の日本の発明品の1位が「カップヌードル」、「チキンラーメン」も6位となった。
本田宗一郎(そういちろう)
ホンダ創業者

(1906年~1991年)

本田宗一郎


【動画】
<テレビ番組>

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戦後生まれの会社を、世界的な自動車メーカーへと急成長させた。日本の車とバイクを世界に普及させた。技術者出身の経営者として卓越した能力を発揮した。 参謀の藤沢武夫に支えられながら、戦後設立のベンチャー企業を、わずか一代で巨大自動車メーカーを創り上げた。

「技術は人のために」が、本田の口癖だった。それを象徴するのが、そばの出前でお馴染みのバイク「スーパーカッブ」だ。

スーパーカブの前身は、本田が旧陸軍の無線機発電用エンジンを自転車に取り付けて走らせたものだった。 それをベースに、1958年、出前の店員が片手でも運転できるようクラッチを自動にした。スカートの女性にも配慮し、足を大きく上げなくても乗り降りできるステップスルースタイルと大型の泥よけを採用した。

完成されたデザインは、半世紀以上ほとんど変わらず、歴代のホンダ社長に「スーパーカブを超える製品を作りたかったができなかった」と言わしめた。

大企業になった後も自由闊達で、挑戦を忘れな社風を保った。1991年、84歳で死去。

世襲を嫌い、息子をホンダに入れなかったことでも知られる。

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10 江副浩正
(えぞえ・ひろまさ)
リクルート創業者

(1936年~2013年)

江副浩正


【動画】
<伝記の解説>

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リクルート創業者。戦後の日本が生んだ偉大なベンチャー起業家。

東大の在学中に創業。 就職情報誌を大成功させ、一大情報メディアをつくりあげた。 モノでなく、目に見えない「情報」の価値にいち早く目をつけ、後に到来するネット社会でも活躍できる集団を築いた。

若者が活躍しやすい自由な社風を貫いた。そこにユニークな人材が次々と集まり、多数の起業家が育っていった。それによって間接的に日本経済の活性化に貢献した。 経営者以外にも、東京・杉並区立中学校長に転身した藤原和博さんや、NTTドコモで「iモード」の生みの親となった松永真理さんらが有名。

東京地検の捜査(1989年のリクルート事件)によって、経営者としての生命を絶たれた。 経営手法が強引だったのが、あだとなったようだ。

同じく東京地検に摘発されたホリエモンが買収によって会社を大きくしたのに対して、 江副は様々な新規事業を自らの手でゼロから作り上げていった点が異なる。

1992年にリクルート株をダイエーに譲渡した。株式譲渡益などで得た多大な資産を文化活動に注入し、若手音楽家を育成するための財団「江副育英会」などを設立。精力的に活動した。

2002年からはオペラ制作にも進出。舞台設営からオーケストラの手配まで億単位の資金を供出する日本オペラ界を代表する“パトロン”でもあった。

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11~20位

順位 人物名 概要
11 馬渕隆一
マブチモーターの元経営者

(1922年~2005年)

馬渕隆一
創業者の兄・健一とともに、小型モーターの分野で世界で圧倒的な地位を築いた。 兄が一線を退いた後は一人で経営を担った。 バブル経済の1980年代、多くの製造業が多角化で失敗するなかで、「モーター専業」という立場を貫いた。 温厚で謙虚な人柄で知られる。
12 金川千尋
(かながわ・ちひろ)
信越化学工業のCEO

(1926年~)

金川千尋
投資感覚に優れた国際派の経営者。独自の相場観に基づく先手必勝の戦略と、緻密な実行力で知られる。日本の製造業としては桁外れの大胆な積極投資で成功した。

30代半ばで三井物産から信越化学に移籍。 アメリカで子会社の立ち上げを担当。 米国の地元の人材活用や組織づくりでずば抜けた能力を発揮し、塩化ビニール樹脂(塩ビ)事業の世界展開の立役者となった。

1990年に社長に就任。半導体シリコンなどの分野で欧米やアジアの強豪メーカーとの熾烈な競争を指揮。 世界トップの座を守り抜いた。
13 岩崎弥太郎(やたろう)
三菱財閥の創始者

(1834年~1885年)

岩崎弥太郎
三菱グループ創業者。明治初期、欧米の海運業者との厳しい競争に勝ち抜くことによって、日本にいちはやく「海運業の自主権」をもたらした。

土佐藩で生まれた。身分の低い地下浪人の出身だった。 1870年、30代半ばで海運会社(後の日本郵船)を設立。台湾に漂着した琉球漁民殺害を機に起こった日本の台湾出兵(1874年)で物資輸送を独占し、海運王になった。

明治政府による新紙幣の発行前に、各藩の古い紙幣を買い占めたうえで、政府に買い取らせた。 このように、政府絡みの利権で儲ける政商でもあった。

1885年5月、50歳で急死した。死因は胃がん。
14 孫正義
ソフトバンクグループ創業者

(1957年~)

孫正義


【動画】
<テレビ番組>

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インターネット革命において世界の中心になれなかった日本において、その遅れを挽回すべく尽力した。日本国内の通信料金の値下げに多大な貢献をした。

役所的な体質を残していたNTTグループを競争によって追い込むことで、通信業界を活性化。 高速インターネットやモバイル通信の普及に果たした役割は極めて大きい。

また、世界に通用するベンチャー投資企業として存在感を示した。 まだ無名だったころの中国アリババや米国ヤフーなどに投資した。

野村證券にいた北尾吉孝氏をスカウトし、 証券業界にネット取引の旋風を起こした。

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15 豊田(とよだ)英二
トヨタ自動車社長

(1913年~2013年)

豊田英二
トヨタ自動車の「中興の祖」と称される。世界有数の自動車メーカーに育て上げた。

トヨタの草創期を支え、日本初の本格的な自動車開発に取り組んだ。

生産に携わる社員らがカイゼン(職場改善)のアイデアを出し合う活動を現場に根付かせた。徹底的に無駄をなくすトヨタ生産方式の確立に取り組んだ。
16 小林一三(いちぞう)
阪急、東宝創業者

(1873年~1957年)

小林一三
日本の私鉄経営のモデルをつくった。すなわち、鉄道を中核に沿線で宅地開発を進める。さらに、商業・娯楽施設を開業する。それによって、収益を最大化するというスタイルだ。

会社員から起業家に転じた人物である。三井銀行(現三井住友銀行)で14年間勤務した後、退職。阪急電鉄の前身である「箕面有馬電気軌道」の計画が地元で持ちあがると、銀行時代の上司のツテでプロジェクトに参画することとなった。

大阪と農山村を結ぶ路線であったため、鉄道経営の先行きを心配する声が多かったが、小林は出資者集めに奔走した。鉄道の運営会社(後の阪急)の専務に就任。実質的な経営者として指揮した。1910年に梅田―宝塚間で電車が開業すると、小林はすぐに沿線で庭付き住宅の分譲を始めた。鉄道会社による初の郊外住宅だった。小林は大阪の街中の窮屈な長屋で暮らしていた人々に、自然豊かな郊外で暮らそうと訴えた。住宅分譲は初の住宅ローンを導入した。

さらに、宝塚歌劇団を創設。初のターミナルデパート「阪急百貨店」を開業した。東京では、、東宝を創設した。斬新な発想で阪急・東宝グループを築いた。

1927年(昭和2年)、放漫経営で苦境の東京電燈(東京電力の前身)に乗り込み、社長として経営を立て直した。1936年に大阪阪急野球協会(後の阪急ブレーブス)を結成し、翌37年に球場を建てた。

1938年、小林の発案で東京・新橋で「第一ホテル」が誕生した。シングルルームを主体とする日本初のビジネスホテルだった。お金持ちのための施設だったホテルが、会社員でも手の届く存在になった。

このほか、東京電燈(現東京電力)、日本軽金属の社長も務めた。第2次近衛内閣の商工大臣、戦後の幣原内閣の国務大臣兼戦災復興院総裁を歴任した。
17 鈴木敏文
セブンイレブン元経営者

(1932年~)

鈴木敏文
セブンイレブンの元経営者。 アメリカ生まれのコンビニという業態に、日本人的なきめ細かな管理システムを導入。革新的な業態に発展・普及させた。日本人の生活を格段に便利にさせた。 最終的には、米国の本家セブンを買収した。

しかし、退任後、この人がセブンイレブンを経営している時代に、アルバイト・パートの残業代の一部を払っていなかったことが発覚。 鈴木氏の金儲け主義の弊害が明らかになった。
18 宗次徳二
(むねつぐ・とくじ)
ココイチ(CoCo壱番屋)創業者

(1948年~)

宗次徳二
日本式の家庭風カレーを新しい外食文化として定着させた立役者。 いわゆる「捨て子」として孤児院で育ち、養子に入った後も過酷な極貧生活を送ったことで知られる。 夫婦でイチからカレー屋を立ち上げ、約20年で世界一のカレーチェーン店を築いた手腕は見事。 それ以上に、早朝から会社を自ら掃除し続けるなど、謙虚な性格で尊敬を集めている。 53歳の若さで引退し、プロパー社員に後継の道を譲り、「引き際」も鮮やかだった。 人柄の大切さを教えてくれる名経営者。
参考:動画→
19 柳井正
(やない・ただし)
ユニクロ社長

(1949年~)

柳井正
奇をてらわないシンプルな服を量産し、割安で販売するスタイルを追求。 ユニクロを日本で断トツ1位の衣料品店の育てた。 さらに、世界にも通用する競争力とブランド力を築いた。
20 島正博
(しま・まさひろ)
島精機製作所創業者

(1937年~)

島正博
島精機は、日本を代表するアパレル製造機のメーカー。 「コンピューター横編(よこあみ)機」の分野で市場シェア世界1位。 ユニクロなどの国内衣料品メーカーはもとより、欧米など世界の一流ブランドの洋服づくりを支えてきた。

島氏は一流の発明家として知られており、定時制高校に通っていた16歳のときに「二重環かがりミシン」を開発。 さらに18歳で画期的な「ゴム入りの軍手」を生み出した。 特許の出願件数は1100件を超え、トーマス・エジソンを上回る。

参考:島正博とは
21 林虎彦
(はやし・とらひこ)
レオン自動機創業者

(1926年~)

林虎彦
天才発明家であり起業家。 食品機械メーカー、レオン自動機(東証一部上場)の創業者。

独学で機械工学などを研究し、「自動包あん機」を1962年に完成させた。1963年にレオン自動機を設立。世界中で特許を取得した。

参考:林虎彦とは
22 中山素平(そへい)
日本興業銀行の元頭取

(1906年~2005年)

中山素平
戦後の経済成長を支えたバンカー(銀行家)。 金融界の重鎮として、産業界の業界再編にリーダーシップを発揮した。 富士製鉄と八幡製鉄の合併による新日鉄の誕生などが有名。 愛称は「そっぺい」
23 相山武夫
(あいやま・たけお)
日興産業、横浜カントリークラブ創業者

(1915年~2000年)
戦後、石油製品メーカー「日興産業」を起業し、大成功した。

さらに、「横浜カントリークラブ」など全国に名門ゴルフ場を次々と作った。 自らがゴルフ設計者となってコース設計を手掛けた。世界的なゴルフ大会の開催を実現させた。

テニスコートやサッカー場などの設備にも乗り出し、 スポーツ振興全般に多大な功績を挙げた。 1992年には、高級会員制フィットネスクラブ「EIMOS(エイモス)」を横浜で開業した。総工費40億円。

地域振興のために数億円単位で寄付するなど、利益を社会に還元し続けた。

例えば、出身地の富山市が1997年に建設した「水橋ふるさと会館」では、工費7億円のうち3億円を負担した。同会館の「相山ホール」では今でも地域の文化イベントが盛んに行われている。 音楽大学出身で芸術にも造詣が深かったため、とりわけ文化活動には熱心だった。

また、地元・水橋高校には、1億7000万円の私財を投じて「相山記念館」(1988年完成)を建設した。さらに、奨学金や海外研修費用の助成制度も創設した。

2000年に84歳で永眠。孫の相山武夫氏が後継者となった。


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